一領具足の碑と六体地蔵 高知市浦戸
2008年 12月 29日
塩漬けにされ大阪の井伊直政のもとへ送られた
その胴体が埋葬後に石丸塚としてこの地に祀られている
”大阪の井伊直政”とは彦根藩の第一代藩主である
「関ヶ原の戦い」で敗者となった長宗我部氏は所領没収され改易
土佐を与えられた山内一豊の土佐入国に際し
家康が井伊直政に接収を命じ一豊に引き渡そうとしたことにより
直政の家臣・鈴木平兵衛らが
また、遅れて一豊の弟・康豊が土佐接収のため入国
大河ドラマ「功名が辻」では一豊が直接鎮圧した設定になっていたようだが
一豊の入国は鎮圧の翌年である
この所領没収に長宗我部氏の遺臣ら一領具足が
浦戸城に篭城するなど激しく抵抗
総大将に担いだ桑名弥次兵衛、蜷川親長らの画策により開城され
混乱のうちに鎮圧された出来事である
俗に言う「浦戸一揆」
一領具足(いちりょうぐそく)とは長宗我部国親が組織した半農半兵の兵士で
国親の子・元親が四国統一を果たしたのは
この精強な一領具足を率いてでのことである
「土佐物語」には”死生知らずの野武士なり”とある(Wikipedia)
さらに一豊が入国後
画策により入城祝いとして桂浜で相撲大会を開き
見学に来た残党73名を捉え種崎の浜で処刑
長宗我部遺臣ら一領具足の不満分子に対し厳しい弾圧を行った
こうしたのち、長宗我部遺臣、一領具足らは
帯刀こそ許されたものの武士身分を剥奪
長宗我部遺臣らは郷士、山内家臣は上士として
他藩とは違った土佐独特の厳しい身分制度が確立する
さて、この記事はあえて「幕末」のカテゴリに入れたのは
その数約9,000人とも言われた一領具足らが
郷士或は庄屋となって各地に散らばり
幕末期における「庄屋同盟」や
「土佐勤皇党」誕生への原動力になったものと思われるからである
よく言われる「山内家」と「長宗我部遺臣」の遺恨は
すでに幕末期には希薄で直接的ではなく
こうした歴史と厳しい身分制度
また長宗我部時代からの「南学」による学風が
土佐での幕末期の志士の沸騰を呼んだものと考えたい
ところで「六体地蔵」とは
平安中期以降に祀られた六体の地蔵信仰が盛んになったことからだそうで
地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道の六道から来るとある
ここの六体地蔵は昭和十年に開眼式、「南海地蔵尊」との説明板がある
ところで小さな祠があり
「×××に祟った怨霊」と刻まれた墓石(?)があった
ちょっと怖い
左に行けば桂浜、前に太平洋が広がっております 県道14号線、黒潮ライン
ちょっと重く書き過ぎましたが
土佐での幕末事情のモトになる部分ですので (^^ゞ
すべてAdobeRGBで処理
撮影:2008年12月23日、28日
使用頻度の少ないレンズを持ち出してですね。
D35って、折角の明るさを生かして撮るには何を撮って良いのか解らない。
塩漬けの首を想像しただけで今夜は1人どうやって眠ろうか?
恐いよぉ〜!!怨霊も出て当然ですね。
家の近くでも4000もの命が三増合戦で散っていますが
未だに夜その辺を通るとザクザクと鎧を来た怨霊が歩いて
いると言うし 武田信玄役をやった去年の方は祭りの翌日
突然帰らぬ人となりました。やはり首塚も有って恐いです。
お写真からそんな浮遊霊が感じ取れて身震いがしました。
結構霊感が強いあきです。困った!!
私もなぜ六体なのか最初わからなくて。
1日目にSIGMA12-24持ち出したのですが今ひとつで、フィッシュ
アイ思い出して撮り直しに。フィッシュアイの方が絵づら的にも使い
やすいかもですね。
使ったのは実践では初めてと言っていいほどですが (><)
私まったく霊感がありませんで (^^ゞ
4,000もとは壮絶ですね、武田信玄役の方の急逝とはやはり何か
あるんでしょうか。
不動産やってる某T氏(笑)に聞いたのですが、高知市のかつて雁
切り橋といわれていたあたりに、登記上”首なし”って土地名がある
らしいです。お~怖っ。
なお、吉田東洋、人切り以蔵こと岡田以蔵らの首が晒されたあたり。