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青蓮院宮令旨事件

「御令旨等、拝戴致し候仕業、上を欺き奉り、不届き至極」 (罪状文)

文久3(1863)年6月8日
平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3士、切腹
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平井が首唱し間崎、弘瀬とともに企てた計画は
青蓮院宮に、前土佐藩主に対し「藩政改革の令旨」を下してもらい
一気に藩政改革を実現しようとするものだった
文久二年十二月十七日

土佐勤王党にとっては前途は意気揚々としたものであったろうか
翌文久三年正月の平井のうたとある
「梓弓春立ちくればおのづから物思ふ身も長閑(のどけ)かりけり」

平井収二郎墓所
関連記事はこちら → 平井収二郎墓所/生誕地と平井加尾
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「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と云われる容堂だが
「勤王」は過激化する勤王党、武市らを一時的に懐柔するための方便ではなかったか

吉田東洋は暗殺され、攘夷過激派による天誅と称する暗殺が横行するなか
文久二年十月には土佐藩主豊範の参勤の兵を護衛に
半平太は三条実美、姉小路公知を正副・勅使とする一行に随行する
柳川左門と変名、公卿の「雑掌」となる勢いである

下士ごとき「我が藩の軽格の仕業」である

容堂の帰国は三月二十六日で、帰国後勤王党弾圧が始まるが
その直前の三月十五日には
半平太は「京都藩邸留守居加役」へと下士からの異例の昇進をする

間崎哲馬邸跡
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勤王との幹部でありながらNHK「龍馬伝」にも出てこない間崎哲馬だが
土佐の三大奇才とも云われた人物で
吉田東洋の塾に学び、吉村虎太郎、中岡慎太郎らの師でもあった

彼には海軍への志向があり
龍馬が勝海舟を訪ねるきっかけとなり
また、春嶽、海舟と最初に面談したのも彼と一緒だった、との説がある
これはまたいずれ

なお、弘瀬健太の資料は両氏以上に乏しい

弘瀬健太生誕地、邸跡
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弘瀬健太墓所
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さて、三士には脱藩を勧める声も高かったが
半平太が自首状を提出させ、藩主、藩庁に従順させた
半平太は自らの切腹まで騙され続ける、のである
土佐勤王党の維新での役目は終わった

「どうして龍馬と付き合わんのだ」 "武田"海舟の声が聞こえてくるような
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彼らもまた維新の捨て駒になった

Canon EOS-5D MarkⅡ、CONTAX Carl Zeiss Planar 1.4/50 T AEJ 59番台
ZUIKO FISHEYE 16mm F3.5、EF17-40mm F4L、EF300mm 1:4L IS

撮影:2010年5月9日

by ji5isl | 2010-05-18 23:22 | 幕末関連