青蓮院宮令旨事件
2010年 05月 18日
文久3(1863)年6月8日
平井収二郎、間崎哲馬、弘瀬健太の3士、切腹
平井が首唱し間崎、弘瀬とともに企てた計画は
青蓮院宮に、前土佐藩主に対し「藩政改革の令旨」を下してもらい
一気に藩政改革を実現しようとするものだった
文久二年十二月十七日
土佐勤王党にとっては前途は意気揚々としたものであったろうか
翌文久三年正月の平井のうたとある
「梓弓春立ちくればおのづから物思ふ身も長閑(のどけ)かりけり」
平井収二郎墓所
関連記事はこちら → 平井収二郎墓所/生誕地と平井加尾
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と云われる容堂だが
「勤王」は過激化する勤王党、武市らを一時的に懐柔するための方便ではなかったか
吉田東洋は暗殺され、攘夷過激派による天誅と称する暗殺が横行するなか
文久二年十月には土佐藩主豊範の参勤の兵を護衛に
半平太は三条実美、姉小路公知を正副・勅使とする一行に随行する
柳川左門と変名、公卿の「雑掌」となる勢いである
下士ごとき「我が藩の軽格の仕業」である
容堂の帰国は三月二十六日で、帰国後勤王党弾圧が始まるが
その直前の三月十五日には
半平太は「京都藩邸留守居加役」へと下士からの異例の昇進をする
間崎哲馬邸跡
勤王との幹部でありながらNHK「龍馬伝」にも出てこない間崎哲馬だが
土佐の三大奇才とも云われた人物で
吉田東洋の塾に学び、吉村虎太郎、中岡慎太郎らの師でもあった
彼には海軍への志向があり
龍馬が勝海舟を訪ねるきっかけとなり
また、春嶽、海舟と最初に面談したのも彼と一緒だった、との説がある
これはまたいずれ
なお、弘瀬健太の資料は両氏以上に乏しい
弘瀬健太生誕地、邸跡
弘瀬健太墓所
さて、三士には脱藩を勧める声も高かったが
半平太が自首状を提出させ、藩主、藩庁に従順させた
半平太は自らの切腹まで騙され続ける、のである
土佐勤王党の維新での役目は終わった
「どうして龍馬と付き合わんのだ」 "武田"海舟の声が聞こえてくるような
彼らもまた維新の捨て駒になった
Canon EOS-5D MarkⅡ、CONTAX Carl Zeiss Planar 1.4/50 T* AEJ 59番台
ZUIKO FISHEYE 16mm F3.5、EF17-40mm F4L、EF300mm 1:4L IS
撮影:2010年5月9日
こういった資料、龍馬伝を見るのに大変参考になりますね。
いや失礼、「御令旨等、拝戴致し~」は罪状文です。
収二郎の獄中での爪書きを加尾が墓に刻んだものです。
これは官吏に削られたままです。
「~世を憤り国を憂い、忠臣まず傷つく」
あの脚本だと一般の視聴者は何の事件なのか、さっぱりわからなかったんじゃないでしょうか。
僕でも今だに、きっちり文章立てて説明することができません・・・
天誅が引っかかる平井はともかく、間崎は容堂ごのみの秀才でなぜ斬られたのか。
弘瀬は平井と同様な動きをしてたためなのか。
結局は時代考証の人(この人は名前だけで無知と言う噂ですが)
も理解できてないんでしょうね。。。
あと幕末の傑物・横井小楠に対して殿様の前であんな失礼な態度を取らせて、平井の事を語らせていましたが
さっぱり理解に苦しむシーンでした・・・
弘瀬も暗殺に加わっていますね。
間崎はむごいような気がしますが、事件発覚後も容堂の酒の
席で攘夷攘夷とうるさく言ってたし同様に見られたのでは。
あの時点での勤王党は本当にうっとおしい。
>さっぱり理解に苦しむシーンでした
そうなんですが、龍馬伝、所々鋭いセリフが散見される様な。
この「収二郎は終わった」旨の発言、
東洋の半平太に対する「浅はかな」旨の発言、
同「わしはえいがじゃ」等々・・・
近江ツアーですか、
私は連休中墓場ツアーでした。まだ墓場が出ます (^^ゞ