津野山郷 天誅組総裁・吉村虎太郎重郷生誕地
2010年 01月 16日
ご機嫌よく 千年も萬年も ご長寿のほど、ただただ祈りあげ申候。
御母上様 虎太郎
土佐国は高岡郡、この津野山郷に生まれた吉村虎太郎は
天誅組の総裁として実力倒幕の先鋒団を指揮
文久三(1863)年九月二十六日、大和鷲家にて二十七歳で散った
冒頭の手紙は、母親雪が自重を促した手紙についての返書で
大和天誅義挙(天誅組の乱)が決起された同年八月十四日付けにて
家族宛に最後に届けたものとされる
なお、文久二年三月七日、周囲を偽っての第一回目の脱藩のおり
母雪は次の一首を詠み激励した女性である
「四方に名を挙げつつ帰れ かへらずばおくれざりしと母に知らせよ」
さて、虎太郎が天誅組の乱への参加が
勤王党同志への難を避けるべく名簿から削除されたと云われ
その過激さ所以である、とよく書かれるが
単純な過激家分子としての取り扱いに甚だ憤懣やるかたない思いがする
若干十二才ながら北川庄屋職に就いて以降村冶改革に熱誠を傾け
礼儀正しく、愛想がよく、外交辞句もうまく社交家であった
天保十二(1841)年の「庄屋同盟談話之条々」にみられるように
思想を土佐南学を発源とする「庄屋は朝廷直属の職掌」との尊王思想が強く
これは「堂々たる神州、戎狄の辱しめを受け・・・・」の起草文で始まる
土佐勤王党に系譜を引き、土佐勤王の志士に庄屋出が多かった所以ではないか
吉村虎太郎、彼こそがその思想を体現化しようとした、土佐随一の人物でなかったか
また、彼は情熱の歌人でもあり、右肩上がりの独特の書は気がみなぎっている
太平洋戦争中、愛国百人一首の一つとして愛唱されたものがある
「ますらをの 死ぬる命はいとわねど はづかしめらるることの憂きかな」
ここの像については下記以前の記事をご参照ください
「吉村虎太郎先生像」 高知県高岡郡津野町
「吉村虎太郎先生像」Ⅱ 高知県高岡郡津野町
現津野町芳生野
正面山の裾野に生誕地、右奥に四国カルスト、天狗高原がそびえる
写真右端あたりに行動をともにした宮地宜蔵邸跡がある
宮地宜蔵邸跡から少し南に山を上がる
茶堂があり南東向きに高知方面に抜ける林道がある
現林道堂の巣線、正面は堂の巣谷、この上下二枚は茶堂にて撮影
現林道堂の巣線を20mばかり上がった所
右手は高知向きの旧道、左手に芳生野地区に下りる道、正面上がるとお宮
文久二年の脱藩からお互い影のように寄り添った宮地宜蔵の邸跡
藩命により三条公護衛の為上京していたが大和天誅義挙決起直前に急死
生きていれば虎太郎同様、義挙の中心人物として活躍していたのではと云われる
義挙決起は彼の死後16日目、享年二十六才、正五位
雪をいただいた四国カルスト、天狗高原
早瀬の一本橋、虎太郎生誕地向けに撮影、生家前の四万十川支流北川川に架かる
生家側から撮影、1,350年頃より諏訪神社への参拝路として使われている、現役
虎太郎生家すぐ西の檮原向けの山道、白いものは数日前の残雪
脱藩時に通ったと伝わり、現在も梼原に抜けられるとのこと
生家の裏山すぐにある祖父母の墓
祖父の墓碑には文政十三(1830)年「吉村」とあるが
文化十三(1816)年になくなった祖母の墓碑には「吉邑」とある
上記墓のすぐ左上の岩の割れ目より僅かながらの岩清水が流れ出る
虎太郎出生時に使われた清水、との事である
現在も生家登り口まで絶やさず引いておられる
昭和30年代高知市生まれの私には
東津野の”虎太郎”、檮原の”那須信吾”、”脱藩の道”等々の印象が強いが
幕末期には東津野と檮原は同じ「津野山郷」であったとは知らなかった
変遷を調べてみると
明治二十二(1889)年 津野山郷が東津野村と西津野村に分かれる
明治四十五(1912)年 西津野村を檮原村に改称
昭和四十一(1966)年 檮原村が梼原町に
平成十七(2005)年 東津野村と葉山村が合併、津野町に
津野町と梼原町にとって「おらが町の英雄」に違いないのですが
これから生まれの子供達にとってこの生誕地への地元意識はどうなって行くんでしょう
生家については下記の記事をご参照ください
吉村虎太郎邸跡 高岡郡津野町芳生野
現在ご子孫はおられず生家も人手に渡り、当時を偲ばせる門が残っているのみとのこと
顕彰会の方々、当時からお住まいのご近所の方々で管理されているらしい
ちょうどおいでになられたご婦人
また西隣の当時からお住まいの豊田家のご主人に歓待を受けた
このご婦人、生家前の当時道場をされていた長山家の奥様で
ご主人のひじいさんが、虎太郎の子守に背中に乗せてあやした話を聞かせていただいた
虎太郎の幼少を伝える書物に
「隣家に長山十次郎と言う郷士があり、その子に佐弥太がいた。
佐弥太の弓の稽古に5,6才の虎太郎が何時も見学にやってきて
そうして端座してその一挙手一投足を凝視した。
『この子は見所がある』と佐弥太が感心した。」と出てくる
年齢から言ってこの佐弥太氏でしょうか
田中光顕氏書による「贈正四位 吉村虎太郎先生誕生地」碑
昭和九年四月十八日に除幕式典が行われた
なお、田中光顕氏の参列はなかったとお聞きした
昨年安芸郡の「土佐の町家 雛まつり」をレポートしたが
こちらでも「雛祭り」にイベントとして雛を飾り、おもてなしをされたとのこと
お話は長山家の奥様にお聞きした
草鞋をいただいた (^^ゞ
西隣の豊田氏宅にて、普段出されてない案内板までお見せいただいた
除幕式の様子、二階建てだった生家の古写真、虎太郎が使った箸の写真があった
また旧東津野村発行のパンフレット数冊等々希少な出版物もいただき
宮地宜蔵の邸跡、岩清水等々のご案内もいただいた
書の礼として田中光顕氏に椎茸を送ったその返礼のハガキが現存し、その写し
こんなのも現存する、これもいただきました (^^ゞ
「贈正四位吉村寅太郎重郷先生 誕生地建碑 趣意書」 昭和七年十二月
天気が悪く気分の冴えない日かと思いましたが出てみるものです
ご紹介したお二人に会えたことで大変有意義で楽しい一日となりました
昨年の「雛まつり」同様おもてなしを強く感じました
さて、本日から龍馬博です
県を挙げておもてなしを合い言葉にする所以です
特に県外からおいでの方々には楽しんで帰っていただきたいですね
撮影:2010年1月11日
すんません。
突然のお願いです。
仲良くさせて頂いているモデルさんがオーディションの最終選考まで残っていて現在Web投票中でございます。
宜しければ私のブログより投票してあげて下さいませ。
組織票あればお願いします(笑)
それはそうと素晴らしい写真の数々ですね。
ホントこの上手さには尊敬しちゃいます。
ぜひ取り上げてほしいですね。那須信吾も出てほしい!!
それにしても・・・なんとも
貴重なお話・貴重な出会い・資料・土地案内・・・
思い切って出かけてみてよかったですね~
梼原村・・・私も行ってみたい場所です。
独特のカラーをもつ画像の数々ですね。単純なセピアとは違う・・・
幕末面白いです、是非。
そのツアーで周る方には是非みていただきたい記事です(笑)
「土佐・龍馬 であい博」ですが、賑やかさの影に隠れてしま
う史跡があります。是非本当の歴史を見て帰ってもらいたいです。