中岡慎太郎と柚子
2008年 11月 12日
当時の北川郷(現在の北川村)庄屋見習の中岡光次(後の中岡慎太郎)が
村内に自生していた柚子に目をつけ、農民に奨励したことが始まりとされている
(北川村ホームページ「ゆず物語」より)
北川郷14ケ村の大庄屋、中岡小伝次の長男として生まれる
父・小伝次は従兄弟の源平を中継ぎ養子とし
その源平の嗣子(しし:あとつぎ)を福五郎とした
福五郎は元服してのち通称は光次(こうじ)で
元服は不明だが19歳になった安政三(1856)年には使用例が残る、とある
彼が庄屋見習い時代に植林を行ったものとして
「光次の並木」といわれるものが残っている
飢餓になると、この山の中で農民が塩を買うこともおぼつかず味噌や醤油も作れない
そこで光次は柚子を塩代わりに防腐や調味料として使おうと考えた
日陰で育つ柚子を家の裏や山すそに必ず植えることを推奨
今も山すそに柚子の古木が多いのはそのためだ
(北川村ホームページ「ゆず物語」より)
先日お邪魔した柚子の収穫
実際に100年以上の古木は山裾や家の周りに多く
出荷用に栽培されているのは接木から実のなる背の低いものがほとんどでした
古木は背が高く収穫に労力がかかる割りにお金にならないということで
放置されているのも多いとの事でした
しかしながら、現在高知県内で100年以上の実生からの柚子の出荷は
この北川村だけではないか、との事で
やはり柚子栽培の歴史を感じる所以でした
しかし慎太郎の死後、村ではその名を誰も口にすることはなかったとのこと
郷土史家の故・前田年雄さんは言う
「桃栗3年、柿8年、柚子はすいすい15年、柚子の大馬鹿18年とか言われ
なかなか実を付けん柚子を植える者は大馬鹿じゃと言われる時代になり
いつの間にか慎太郎と柚子との関係も打ち捨てられてきた」
(北川村ホームページ「ゆず物語」より)
さて、光次は庄屋になることを選ばず
文久三(1863)年には慎太郎と名乗り国事に奔走することになる
ただこの国事に明け暮れる志士としての活動の多忙な合間に
高邁な口調で天下国家を論じる志士の多い中にあって
米はどうか、不作・飢饉はどうかと案じる手紙を家族に書いている
光次、飢饉に苦しむ和田、小島、平鍋の三小村の農民を救ったエピソードがあり
この地区の青年会が「中岡先生頌徳碑」を建立している
現在小島の「北川村温泉」玄関横にある
「うちの祖先が命を助けられたき。
前は学校の敷地にあって、学校がのうなったきうつしたがよ」
と小島出身の方に聞きましたが (^^ゞ
明治二十四年四月八日 贈正四位
明治四十四年建設 北川村中部青年会
現在の柚子の栽培ですが
「昭和40年頃に本格的なゆずの栽培が始まりました
当時は6ヘクタール位の栽培面積から始まり
現在村内では100ヘクタールを誇る全国でも有数のゆずの産地となっています」
(北川村ホームページ「ゆず物語」より)
写真はすべて小島(おしま)で撮影
右も左も、上も下も柚子ばっかり (^^ゞ
現在柚子の栽培日本一だそうです >慎太郎様
Canon EOS-5D、TAMRON AF28-75mmF2.8 A09E
EF135mm F2L F2.8、EF17-35mm F2.8L USM
SILKYPIX Developer Studio Pro Beta版
撮影:2008年11月2日
素敵なTBを頂きまして有難うございます♪
お言葉に甘えさせて頂きまして 柚子レシピの記事を
2つTBさせて頂きました。
それにしても 江戸の昔からとは凄いですね〜!!
天然物の柚子を是非口にしてみたいものです。
見渡す限りの柚子畑素晴らしいです。
古木が多くの歴史を物語っていますよね〜!!
お写真が又透過光で ほのぼのと情感が伝わり
心に染み入りました。素敵です。
いつも有難うございます。(*^_^*)
皆、天気も良かったのでしょうか高コントラストな仕上がりですね。
コントラストが高めの方がメリハリがあって良いですよね。
白飛びと暗部が潰れやすいですですが。
落ちたユズのが好みです。
すばらしい記事で花を添えていただいて大変うれしいです。
柚子商品はお隣の馬路村が有名で、それぞれの商品も品質が大
変よくおいしいです。この北川からも馬路村に出荷されております。
高知の柚子をご贔屓にお願いしますね~♪
いい天気でした~♪
わずかですが柚子の収穫も経験させていただきました。
楽しい一日でした。
撮影はこの過疎の山間部で活躍した慎太郎を想い撮影しました。
頭の中はそれしかなかったです。また、柚子以外思いつくものがな
かったっス。
緑被りが多いですねさすがに。調整はしましたが(><)
コメントありがとうございました。何度も見せていただいております。
最近、幕末を強く意識する事ばかりです。
腐ったような日本人がノコノコ馬鹿な法案を可決しようとするのを
見るにつけ、心がざわざわします。
慎太郎の眼力画像(にらみ据えてる)と対峙したくなります。
心に染み入る記事でした。北川村に飛びました。
慎太郎の幼名が福五郎となっているのですが
福太郎では無かったですか?北川村HPだから
間違いではないですよね・・・?
宮地先生の文献では福太郎だったもので・・・。
それにしても、柚子の木と実・・・すばらしく立派ですね。
木の下に立っていたい気分です。
国事に奔走した慎太郎の魂のかけらが
北川村を想うように柚子の実に宿っている気さえします。
腹の据わったリーダーがおりませんね。西郷、龍馬、慎太郎等々幕
末には多くの志士が、国を憂いて自らをなげうって活動してたので
すね。今は政治家もマスコミも足の引っ張り合いです。またわれわ
れ一般にもナショナリズムのかけらもないのかもです。
国歌を歌うのを嫌い、国旗掲揚に文句を言うお国柄になってしまい
ました。
国力は衰退する一方ですが。
養子に入り慎太郎の養父になった源平が書いた年譜は「福五郎」
だそうで、尾崎卓爾「中岡慎太郎」では誤記ではないかとも言われ
ております。平尾氏、宮地はそれが定着したものか・・・と、疑問は
残るそうですが。新しい研究の書に従いました。
なお、松岡司さんの本です。
>木の下に立っていたい気分です。
柚子の向こうに見える山肌を見ると、この地が慎太郎が大切にした
故郷なんだなぁとしみじみでした。