武市瑞山先生殉節之地 土佐藩南会所跡
2008年 08月 04日
土佐勤王党の盟主、武市半平太こと武市瑞山、逮捕・入牢
ここは現高知市大橋通り、その南会所跡
長州藩が失脚すると、勤王派は急速に衰退
土佐でも勤王党への弾圧が厳しくなり
武市瑞山をはじめ、土佐勤王党同士も次々と捕縛
彼の政治生活動、政治的思考はこの逮捕により終わるが
なお時代は回転を早める
翌元治元年五月 (1864年)神戸海軍操練所設置
翌元年六月五日(1864年7月8日)池田屋事件
同年七月十九日(1864年8月20日)禁門の変
同年十一月 (1864年)長州藩恭順(三家老の自刃)
元治二年二月 (1865年)高杉晋作が長州藩の実権を握る
同年四月 (1865年)第二次長州征伐
慶応元年閏五月 (1865年)下関で坂本龍馬と桂小五郎が会合
武市瑞山は入牢後約1年9ヶ月にわたり
土佐勤王党瓦解と獄外の同士を守るため獄中闘争を続ける事となる
下記は某著で「瑞山が切腹した」と書いている辺り
逃れられないほどの疑いがありながらも
頑として口を割らなかったものは生き残り
自白組みは打ち首となった
岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎
自白組みのうち
瑞山の実弟、田内衛吉は服毒による自殺
また、口を割らなかった
瑞山の妻・富子のいとこにあたる島村衛吉は、しめ木で圧死
これは観察陣がはじめから絞め殺すつもりであったとする
武市瑞山
慶応元(1865)年 閏五月十一日 切腹
大橋通りアーケードの西隣、土佐藩南会所跡
以前ここに大きなスーパーがあったが閉店
現在1階を大型店舗にしたマンションが建築中とある
大橋通り商店街を南から電車通り越しに
アーケード奥に「ひろめ市場」
アーケード内にある龍馬の人形、何はなくとも龍馬・・・
「ひろめ市場」南口、かつての土佐藩家老宅
「武市瑞山先生殉節之地」碑は写真左手、50mほど先にある
「ひろめ市場」内の賑わい
ひろめ市場内には「龍馬通り」がある
瑞山をはじめ、土佐に残った勤王の志士の名はない
なお、岡田以蔵ら下級の郷士がつながれた山田町(現はりまや町)獄舎は
高知市洞ヶ島「薫敵神社」内に残る
これはまたいずれの機会に
撮影日:2007年9月17日、10月6日、2008年7月13日、21日
24-105mmにはND4付けているのでしょうか。
ラストから2枚目が雰囲気出ているような。「たっすいが」って???。
12-24mmそう言えば使ってないなぁ、車の中に入れっぱなしでカビが心配。17-35mmもだぁ。まずい。
NDフィルターはISを生かして動体ブレ狙いで。
ところで、うちの猫もモモでした。オスでしたが (^^ゞ
>isyotaさん、mamijeenさん
高知での麒麟ビールのCMで流行りました。
広末涼子が「たっすいがは、いかん!」って (^^ゞ
たっすい=気弱な、軟弱な
がは=~のは
で、”たっすい”のはダメ!
これ、女性に言われたらねぇ~、そりゃ飲みますわ(笑)。
龍馬通りは全国何箇所あるんでしょ(笑)
吉田東洋や間崎哲馬が死なずに済んでいたら、もっと土佐も
いい方向に進んでたんじゃないかなとも思い始めてます。
まあ、龍馬にはそんな土佐は狭すぎたんでしょうけどね !
>龍馬通りは全国何箇所あるんでしょ(笑)
ねぇ (^^ゞ
でも高知で屋外で実際に名のついた通りはあったかなぁ???
いただいたコメントで考えました。
早い時期では吉田東洋だったかも知れませんが、人望がなく無理
だったのは結果の通りかと。土佐をまとめられたのは、やはり武市
半平太しかいなかったのではないかと思います。政治手腕、人望・
人格、カリスマ性、どれをとっても他にいない。龍馬、慎太郎が
維新後に生きていたとしても、です。
でも龍馬はなぜ土佐を出たのでしょうね、で、何しにどこへ・・・。
妙に釈然としませんが。
統率力としては、半平太以外にはいなかったでしょうね!
容堂を始めとする藩上層部にも、思いを共有する面もあっただろうし後年、容堂がこれらの弾圧を悔いたと言うのも、微妙な掛け違いと
いった感もあっただろうし残念に思います。
龍馬の脱藩の理由ははっきりわからんですね。
ただ「外の世界を自由な身で見たかった」ってことなのかな・・・
お知らせありがとうございました。
瑞山先生殉節の地・・・銀行近くの場所でしたよね?
横を通り過ぎる事しかできなかったけれど
「山田町獄舎」など、隠れた史跡がまだまだありますね。
壮絶な拷問だったのでしょう。
明治になってから、後藤象二郎などが富さんに
詫びを入れたようで・・・
ひろめ市場にも寄りたかったです~☆