武市半平太邸跡及び道場跡 高知市菜園場町・桜井町
2007年 09月 30日
尊王攘夷を血判同盟によりまとめたのが土佐勤王党で
その盟主であったのが武市半平太
ここがその勤王志士たちの発芽の場所になったのだろうかと
あれこれ思いをめぐらしております
吹井の家屋敷(生家)と交換にこの田淵町(現桜井町)に
新居・稽古場を構え弟子を取り立て始める
安政元(1854)年には自身免許皆伝、大地震による自宅崩壊があり
翌年正月に同じ場所に下記案内板にある間口6間・奥行4間の道場を新築する
黒い板塀を張った門をくぐったすぐの建物で
屋根は茅葺で横長の道場であったと言う
現在の記念碑は菜園場町の横堀公園北詰にあり
実際に道場ののあった場所は道を挟んだ現在桜井町(旧田淵町)で
この記念碑より30m東の道路北(桜井町)側と推定されている
写真右奥・・・
(※自販機のある酒屋さんが跡地にあたるとのことです)
以前石碑は道を挟んだ北(桜井町)側にあった
跡地の推定場所は更に東30m
旧石碑の建っていた場所の東隣に古いお屋敷がある
いつ頃のものかわからないが幕末の雰囲気が少しだけ・・・
午前は妻富子の叔父島村寿之助が槍術、午後から半平太が剣術を指南
案内板には「120名ほどの門人があり」とあり
また五、六十名の弟子で繁盛していたと書物にあるので
この界隈は青年剣士で賑わっていたのではと思う
若き岡田以蔵、吉村虎太郎、中岡慎太郎らがここで汗を流し
また龍馬も剣術仲間を連れてはここで汗を流したろうか
文久元(1861)年八月に土佐勤王党が結成されて以来
その密談の主な場所になったのはこの武市半平太邸であろうか
那須信吾らを実行犯として吉田東洋暗殺を計略実行し
また、道場に寄宿していた慎太郎らは
その探索に当っていた横目付けへの急襲を企てたりしている
なお慎太郎は脱藩直前にここでその密議もしている
文久三(1863)年九月二十一日 逮捕・入牢
8.18の政変により土佐勤王党への弾圧が厳しくなりここ自宅で逮捕
藤岡勇吉ら武術の達人七名が差し向けられた
慶応元(1865)年 閏五月十一日 切腹
半平太の遺骸は盟約起草の大石弥太郎ほか土佐勤王党員のに付き添われ
一年九ヶ月ぶりにこの田淵に戻った
葬式は翌十二日 享年三十七才
写真は横堀公園を北向きに撮影
横堀公園を南向きの撮影
右に四国銀行木屋橋支店が見え
更に電車通りを挟んだ向こうの高知市カルポート(円形)が見える
なお、カルポートの辺りは幕末当時
市場、魚卸、船の発着場で賑わっていた場所
さて、龍馬がよくここへ通って稽古し
帰りに釣具店広瀬丹吉宅で衣服を脱ぎ捨てて前の堀川で泳いだり
「おんちゃん寝さしとうせ」と言って昼寝をしたと伝えられるのがここ
電車通りから北向けに撮影
丹吉の裏口辺り
上の写真から振返って北向きに撮影
堀川公園西隣の新堀川
龍馬の泳いだのはここかと思ったが
平尾道雄編「坂本龍馬のすべて」には前の堀川とある・・・
前の堀川とはどこか、ここ?→2007年4月10日の記事「春の宴」
南向きに撮影、正面に四国銀行とカルポート
撮影日
2007年7月1日・8月5日・9月22日
ZUIKO 135mm F2.8、ヤフオクで意外と安値で出てたので食指が動いたのですが・・・。
ボケも素直な感じで良いですね。
それにしても色んなレンズを持ち出しましたね。
絵的には乏しいので苦労してます。
後で読んだ本だと、跡地は4枚目の自販機(酒屋)のあたりではと
の書物での記述がありました。以蔵、慎太郎らが闊歩していた頃は
にぎやかだったでしょうね・・・タイムマシンで戻って見たい!!!!